※この作品は「恋するタブリエ」の原案となった短編小説です。
 本編とは異なる部分がありますので、ご了承ください。




『共幻文庫短編小説コンテスト2015』
 最優秀作品賞

 第十二回「 。」優秀賞

   恋の章の終わりに 〈浜野稚子〉


◇◇◇


 川沿いの桜並木と歩道に立ち並ぶ銀杏の木々にシャワシャワとクマ蝉の声が反響している。朝の七時すぎだというのにすでに真昼のような日差しが照りつけ、アスファルトに閉じ込められた地熱が湿気を帯びて這い上がってくる。
 美奈は額の前に両手で日よけを作って立っていた。三十路前の、日焼けのシミが気になる年頃だ。薄化粧では隠し切れない小さな斑点が右頬にできているのを最近発見した。そんなことを気にするようになった自分を軽く笑って、ようやく縛ることができるようになったばかりの短い髪を束ねなおす。薄茶色の布製の肩掛け鞄から携帯電話を取り出して、朝六時の着信履歴を確認する。
 モーニングコールがオーナーシェフの岩崎の猫なで声とは不吉だ。
「今日はお前も市場へ連れて行ったる」
 押しつけがましい台詞は中年男の黄色くにごった口臭が漂ってくるようで気味悪く、今朝は一気に目が覚めた。
「一人前の料理人はいい食材を自分で見極められへんと」などともっともらしいことを言って、どうせ買ったばかりの車を自慢したいのだろう。わがままな子供の御守りを押し付けられたようで気が重い。
 ため息をつくたび幸せが逃げるというなら、今朝はいったいいくつの幸せを逃したか。だいたい幸せって何だ。声にならない言葉が唇を動かした。

 二十歳で料理専門学校を卒業した美奈は、調理師の仕事について八年になる。従業員四十人を抱える大きなフランス料理店で六年間修行した後、岩崎の店に勤めをかえた。岩崎の店は客席が二十ばかりの小さな店で、厨房にシェフの岩崎と美奈、「坊主」と呼ばれる見習いの三人しかいない。
 従業員が少ない店では一人の仕事量が増える。そういうところで力をつけたいというのが店をうつった理由となっていた。前の店を辞める前に、美奈の恋心が同僚のひとりに拒まれたことは幸い誰にも気づかれていない。美奈はひっそりと自分のささやかな恋物語に句点を打って終わらせた。
 自分には仕事しかない。恋や結婚は自分には似合わない。仕事に打ち込むために店をかわったのだ。
 岩崎の料理の腕は確かだ。フレンチの古典をベースにした濃厚なソースは評判で、技術を習得しようと若い料理人が度々やってくる。しかし岩崎のわがままで暴力的な性格に耐え切れず、みんな数か月で去って行く。
 二年間、美奈はここでしゃにむに働いてきた。朝は七時から厨房に入り、十五時間をそこで過ごす。今では仕込みから営業中の肉の火入れまで任されている。
 いつもならすでにコックコートを着ている時間だ。
 今日はランチの予約が十一時半から入っている。市場から戻って仕込みに取り掛かって間に合うだろうか。今頃、手際の悪い「坊主」が一人でおどおどしながらレタスをちぎっているだろうか。あいつは皮をはじけさせずにジャガイモを茹でられるだろうか。

 不意にせわしないロックのドラム音が流れてきた。カーステレオの音を響かせ信号待ちしている乗用車がある。フロントガラスが反射して運転席が見えないが、ウォンウォンとせわしなくエンジンをふかせている様子が岩崎の癖である貧乏ゆすりそのものに見えた。信号がかわるのも待ちきれないようでフライングして動き出す。美奈の前に来てわざとらしくクラクションを鳴らした。
 歩道に沿って車は止まり助手席のパワーウインドウが下がる。
「おはようございます」
 美奈の声は唇から離れた瞬間にドラム音に飲み込まれた。
 岩崎はタバコの吸い口をしがみながら、「ええやろ、新車」と言った。
 でっぷりと太った岩崎は首が短く、頭と胴との境目がない。スポーティーな車のボディーと対照的だ。ハイビスカス柄の色あせた茶色いアロハシャツとレイバンのサングラスをつけた浅黒い顔はセミを思い出させる。
 岩崎は歯形のついた吸い殻を運転席の窓から投げ捨てた。
 今日の岩崎は機嫌がよさそうだ。ニヤけた顔でハンドルの上方を円周にそってなでている。美奈はほっとして助手席に乗り込んだ。
「アウディAー6や。どうや」
「どうや」と自慢され、サンドベージュの革の座席、インパネ、フロントガラス、ミラーへと慌てて首を回し、自分が知っている車との違いを考えながら褒め言葉を探す。車に興味も知識もない美奈には、新しいということ以外に取り立てて特徴的な部分を見つけられない。お世辞のひとつも出せずきょろきょろと目が宙を泳いだ。岩崎が「はんっ」と鼻を鳴らした。自分のような自慢しがいのない人間しか身近にいない岩崎が、美奈は少し気の毒だった。
「お前には車のかっこよさもわかれへんのか。市場のおねえちゃんなんか、俺がこれ買うって教えたら『絶対乗せてくださいね』って言うとったぞ」
 岩崎は死んだ魚の目に似た色の前歯をニッと噛み合わせた。
「そのコ俺が店に行くと妙にうれしそうにしとる。なんとかっていうモデルに似た可愛い子や。まだ二十歳そこそこちゃうかな」
 岩崎は機嫌がいいと独りでしゃべり続ける。
「そうや、お前、市場で料理人の男でも物色したらええ。ここらの店の奴らたくさん来とるで。女は少ないしお前みたいに愛想のない女でも、誰か相手にするんちゃうか」
 美奈はどきりとして顔を強張らせた。心の奥底に泥のように沈んでいた思いに触れられたような気がした。
「なんで、もうちょっと小奇麗な格好してけえへんかったんや、出会いの場にTシャツとジーパンて、アホやな」
 美奈の胸の奥の濁った水を岩崎が容赦なく波立たせる。
「……市場におしゃれしてくる必要ありません」
 そうは言っても、濃紺に明るい黄色のボーダーのTシャツは厚手のポロシャツ生地で美奈の気に入りだった。
(もしかしたら、彼に会うかもしれない)
 とっさにそう思ってクローゼットをのぞいたことを思い出して美奈はうつむいた。もう二年も前に失ったはずの恋心が、いまだにしつこく燻っていることを思い知り情けなかった。
「お前、藪蚊みたいな女やな。チビで陰気くさくて、そやけど妙に気の強いとこがある。そうや、蚊に似とる」
 岩崎はよほど自分のひらめきが気に入ったようで、「蚊や、蚊や」と何度も頷いた。

「暗い」と言われることには慣れている。人付き合いは苦手だ。十人の料理人がいる調理場で働いていてもあまり話せる相手がいなかった。そのためなかなかメインのローテーションの仕事にはつけず、長い間サラダ場でパセリを刻み、小さなハーブの葉をちぎっていた。あの頃、美奈は一人で深夜の誰もいない調理場に忍び込み、私費で買った調理道具や食材を使ってこっそり修行を重ねていた。根気強さだけは自信があった。確かに、追い払っても体にまとわりつく薮蚊に自分は似ているかもしれない。
 そんな美奈の深夜の一人修行に彼だけが気がついた。ある日、誰もいない厨房で調理技術の教科書を開いていると、彼がやってきた。
「お前やったのか。誰かが夜のうちに来とると思っててん。朝、出勤したら片付けた時と微妙に物の位置がかわっとるし」
 そう言って笑った。それから彼は美奈の一人修行に時々付き合ってくれるようになった。
 年は五つ上だったが、彼は高校を出てすぐに調理の道に入っていたので、キャリアは美奈よりも七年長かった。店では料理長のすぐ下の立場で、火の前に立って鍋を振っていた。
 料理人を目指したきっかけや失敗談、夜の修行中に自分だけが聞けた彼の話がたくさんあった。
「薄切りのビーツを曲げずにまっすぐ焼くのはどうしたらいいんですか」
 美奈が自分から初めて彼にした質問。
「まっすぐな鉄板と鉄板の間に挟んで焼くんだ」
忍者が手裏剣を投げる構えのように両手を重ねて見せてくれた彼の姿が浮かぶ。思えばその時、彼のことが好きだとはっきり意識したような気がする。
「俺も昔、夜に一人で練習した。羊のモモ一本丸ごと自分で買って調理してみたり、ハトの毛をむしるとこからやってみたな」
「ハト」
 噛みごたえある肉のうまみを思い出し、美奈はぜひそれを調理してみたいとわくわくした。
「でもな、毛を抜くようなのはやめとけ。大変や、後の掃除が。掃いても、掃いても鳥の毛がふわふわ舞うで」
 よほど美奈が残念そうな顔をしていたのか、彼は続けた。
「ジビエの季節がきたら嫌でもそんなもんさばける時がくる。頑張ってるから……お前、いい料理人になれるで」
 短く髪を刈った頭をかき、美奈の唇にそっと唇を重ねた。

「おい、お前、何ぼんやりしよるんや。人の話、聞いとんかっ」
 美奈は岩崎の怒鳴り声に泡を食ってシートから体を起こした。
「すみませんっ、あの、何の話でした?」
「こう暑いとどこのフレンチも暇やっちゅう話や。こんな時期に新しい店はじめる奴大変やろな。あいつ、お前が前におった店で二番手だった河田くん、独立したらしいやないか」
『河田くん』 
 岩崎の口から彼の名前が出て、美奈は息が止まりそうになった。「ぐえっ」と喉の奥がなった。
「なんや、気色悪い声出して。ゲロ吐くなや、新車やぞ。河田くんて、あいつ、いくつや? 歳、三三、四か?」
 かまわず岩崎は続けた。 
「そのくらい、……だと思います」
 よく知っていることを曖昧に答える。
「キャリア何年だ?」
「……さあ」
「まぁ自分でやりたくなるわな、そろそろ。俺が独立したのはまだ二十代やったからな」
「すごいですね」という一言を期待されているのはわかったが、美奈はだまってシフトレバーを見ていた。
「河田くん、独立と同時に結婚したって話や。大丈夫なんかな」
「何がですか?」
「いや、生活やっていけるんかな」
「そんなこと、シェフが心配することじゃないんじゃないですか」
「私に訊くな」と怒鳴りたいのを抑えて、美奈は努めて冷静に答えた。
「嫁さん金持ちかな」
「……貧乏だったら、悪いんですか」
「料理人たるもの金持ちの嫁さんもらうことが成功の鍵や」
 美奈の頬は冷たく冷やされていくようだった。
「有名になっとる料理人は、だいたい嫁さんがどこそこの大会社の社長の娘だったりするんやで」
「……それなら、大丈夫じゃないですか。……河田さんの奥さんお金持ちらしいです。前の店で一緒に働いてた後輩が言ってました」
 美奈は大きく息をついてから付け加えた。
「緑色のジャガーに乗って河田さんを店に迎えに来たことがあるらしいです……」
 書店で偶然出会った後輩からこの話を聞いたと時と同じように、美奈はがくがくと震える足に気づかれないよう踏ん張っていた。
「ジャガー、けっ、嫌味な車やな」
 歩道橋の手前で岩崎は右へ曲がるウインカーを出した。海が近いことを知らせる潮の匂いが外気に混じっている。
「ジャガー」
 岩崎は憎憎しげにもう一度その名前を口にした。

 
 
 守衛室の前を通り抜け岩崎は駐車場に車を止めた。駐車場は市場の中卸業者の店が入った建物に隣接している。陽炎の中にスーパーや大型の飲食店の大きなトラックが商品の積み込みをしているのが見える。
 岩崎は外したサングラスをダッシュボードに入れ、「奥の方へ止めると、ああゆうトラックの汚ねぇ排気ガス浴びて車が汚れるしな」と車を降りた。強引でずうずうしい岩崎が店舗に近い屋根つき駐車場を利用せず、控えめに手前で車を止めたのを不思議に思っていた美奈は、「ああ」と大げさに相槌を打った。
 白線で区切られた駐車スペースにはワンボックスやワゴン、セダンやハッチバック、いろいろな車会社のエンブレムを掲げた様々な形の車があった。緑色のジャガーは見当たらない。当たり前だ。こんなところにわざわざジャガーで買い付けに来るわけがない。店の車は別に用意しているだろう。一緒に働いていた頃、河田はその店の名前が入った凹みだらけの白いワンボックスに乗って市場に通っていた。美奈は無意識にそれに似た車の周辺に河田の姿を探していた。
 岩崎はジーンズのポケットに両手を突っ込み、肩をいからせて建物の中へと進む。ダンボールや発泡スチロールの箱がぎっしりと積み上げられている間を縫って美奈は大股で岩崎を追った。肩掛けの鞄がぶつからないようにしっかりと胸の前に抱く。黒いゴム長を履いた、汚れたTシャツ姿の男たちと触れ合いそうになりながらすれ違った。魚の生臭さや土の臭い、ビニールにたまって蒸れた雨水のような臭いがした。
 岩崎は何人かの知り合いに、「おう」と挨拶をして、「新車、買うたで」と触れ回った。
「おっはようっ」
 水産物の中卸業者の店の立ち並ぶ突き当たりまできて、岩崎は美奈が聞いたことのない陽気な声を上げた。「お」の後に小さな「つ」が入るようなおどけた岩崎の挨拶。美奈の全身の肌が泡立った。
「ああー、シェフ~、いらっしゃいませー」
 耳に刺さるような高い声。金色の長い髪をツインテールに結んだ、ピンクのサマーセーターの女が岩崎に手をふる。人懐っこいかまぼこ型をした目が、アイラインでくっきりと縁取りされてさらに大きく強調されている。使いまわされている発泡スチロールの箱、茶のダンボール箱、コンクリートの打ちっぱなしの壁、くすんだ色しか見当たらないこの場所で、嫌でも目につく女だった。岩崎を見れば、後ろからでも頬の肉が緩んでいるのがわかる。
「新車、昨日納車して今日から乗ってきたで」
「えっ、もう? ほんまですか? 見たい~」
「かっこええで、なぁ」
 岩崎が美奈を振り返った。思いがけず自分に話が向けられ、美奈は声もなくただうなずいた。
「これ、うちの若いの。今日は勉強させるために連れて来たった」
 紹介されて、美奈はもう一度軽く頭を下げる。視線の端に女の屈託のない笑顔。
「シェフ、ドライブ連れてってくださいよぉ」
 満足そうな岩崎の顔を見て、岩崎がこういう反応を望んでいたのだと美奈は理解した。
「いつもの帆立ちょうだい」
「いつものとはちょっと違う帆立が入ったんですけど、これじゃだめですか」
「あらへんの? いつもの」
 金髪の女はB5サイズほどの発泡スチロールを取り上げ、首を横へ折って上目遣いで岩崎を見た。その目は美奈の方を向くことはなかったので安心して女を観察することが出来た。鼻筋がすっと通っていて、なるほど美人といえないこともない。しかし頬の辺りの下がり始めた肌や口の横に出来るしわは、どうみても三十五は越している。「二十歳そこそこ」という岩崎の自慢話を思い起こして内心噴き出しそうになった。
 男なんて単純だ。ちょっと愛想良くされたらころりとおちるのだろう。
 河田だって――。「仕事のことしか考えられへん」と美奈に言ったくせに、それから結婚するまでは一年半しか経っていなかった。
「この帆立、色が悪いし小さいやん」
「そういう種類なんですよ」
「いつものは?」
「今日は入荷がなくて。次、入荷したら必ずとっておきますね」
 岩崎と金髪女の会話を耳にしながら美奈は魚屋の商品を眺めた。箱からはみ出すスズキの頭、酸素を送る管のかかったケースから時折潮を吹く二枚貝。体を縛られた伊勢海老が長いひげを動かしてかさかさと小さな音を立てている。イサキやあじなど見知った魚の他に名前すら知らない魚もいくつかあった。
 美奈の心は少しも弾まなかった。岩崎の便宜上とはいえ「よい食材を見極められるように」と修行の一環で連れてこられた場所だというのに。
「もしも河田が現れたら」ということだけに心が囚われていた。河田と一緒に働いていたレストランもこの魚屋と取引をしていた。独立しても懇意な店を使うだろう。河田が今ここへ来てもおかしくはない。
「おはようございます。お久しぶりです」落ち着いてそう言えばいい。そんなことを思うだけで鼓動が早くなる。会いたくないはずなのに、こんなにも会いたい。みじめだがそれが本音だった。実際に会えば尻込みして目をあわすことさえも出来ないだろうに。
 それに、今日は一緒に岩崎がいる。美奈は岩崎の存在を改めて思い出し、静かに息をのんだ。  
 河田と岩崎が鉢合わせしたら……。十分予想できる事態なのに美奈は今の今までそれを忘れていた。そんな当たり前なことを忘れるほど浮ついていた。聞くに堪えない自慢話を岩崎は偉そうに河田に聞かせるはずだ。美奈はそこに居合わせることが恐ろしかった。
 早くここから離れたい。少し勢いをつけて体の向きを変えた。ベージュのスニーカーのつま先が隅に置いてあった発泡スチロールの箱に触れた。箱に敷き詰められた小さな氷の欠片の間にグレーの厚紙がささっていて、河田の店の名前と「予約」という文字が赤いマジックで書かれていた。美奈は目を見張って思わず足を引いた。その箱の氷の下に直径6センチほどの形のそろった帆立の貝柱が入ったプラスチックケースが詰められているのが見えた。岩崎が希望している品だ。これに岩崎が気づいたならただでは済まさない。脇がじっとり汗ばむ。ぎこちなく体を動かす。どちらを向いても壁が立ちはだかる迷路の行き止まりのようだ。後ろに積み上げられていた段ボール箱に肩をぶつけて美奈はバランスを崩した。膝を抱え込むようにして座り込む。
「何しとんねん」
 頭上に岩崎の声が降ってきた。汗が背中をつたう。
「ちょっとふらついて、でも大丈夫です」
「しっかりせんか……あっ、ちょっと待て」
 美奈が立ち上がろうと顔を上げると、岩崎は美奈の額を左手でつかむようにして押さえつけた。
「ここにあるやないかっ、帆立! お前っ、見つけたならなんですぐ言わへんねんっ」
「き、気がつき……ませんでした」
「うそつけっ」
 岩崎は美奈を押さえつけたまま、反対の手を使い帆立の入ったプラスチックケースを一つ乱暴に取り上げた。魚くさい氷が美奈の顔の上にパラパラとこぼれた。
「これ、うちにくれ」
 手に持った帆立パックを突き出し、岩崎は低い声で金髪女に言った。女は帆立を受け取りながら、ばつが悪そうに眉をハの字に動かす。
「すいません、これは予約分で……」
「俺だっていつも用意しとくように頼んどる」
 浅黒い顔は怒りで赤さを増しているだろう。美奈からは見えないが、あの細い目が鋭く尖って金髪女に向けられているはずだ。美奈は岩崎に前頭部を押さえられたまま、通り雨がやむのを待つようにじっとしゃがんでいた。岩崎が腹を立てると手がつけられない。美奈は岩崎に調理器具で殴られてコブを作ったことが何度もある。金髪女はどんな顔をしているだろう。陽気な岩崎しか知らない女には衝撃ではないだろうか。「すいませんでした」と泣き出すだろうか。そう思いながら、美奈が氷のこぼれたコンクリートの床に目をうつした瞬間、金髪女が、
「あー、おはようございますぅー」
 と岩崎に挨拶した時よりもさらに高い声を響かせた。
 声の勢いにつられて、岩崎と美奈も振り返った。
 見上げた人物に、美奈は目を見開いて短く息をすったまま固まった。
 エンジ色のTシャツとチャコールグレーのミリタリーパンツ姿。硬そうだった短い黒髪は少し伸びて、ほんのりと茶色味をおびている。ヘインズの白いTシャツにブルージーンズしか着ていなかった昔とは雰囲気の違う河田が立っていた。
「金持ちシェフの登場やないか」
 岩崎はVシネマのチンピラ然として凄んだ。河田は岩崎の言葉の意味がわからず、きょとんとした顔をしている。
 美奈は怯えた。岩崎が河田に何を言うのか、何をするのか。できることならここから消えてなくなりたい。出来るだけ身を縮めた。
「おはようございます、岩崎シェフ」
 河田は岩崎に挨拶をし、ゆっくりと美奈に目を向けると「久しぶり」とかすかに顔をほころばせた。美奈は濡れた灰色の床に再び視線を落とし小さく頭を下げた。よりによって、岩崎に頭をつかまれて飼い犬のごとく座り込んでいるこんな状態だ。再会の言葉に悩んだことはまるで無駄だった
「河田君、店、どないや? 儲かっとんか」
 不気味なほどやさしい口調で岩崎が河田にたずねた。
「いえ、やっぱり今の時期難しいですね。でも、まあ、はじめたばっかやし、ぼちぼちやっていきます」
「君には景気も暑さも関係ないやろ。ええなぁ」
「どういう意味です?」
 河田はいぶかしげに少し声のトーンを落とした。美奈の心臓は酸欠の金魚の口のようにハクハクと強い収縮を繰り返している。
「金持ちの嫁さんもろたんやろ? ジャガー乗っとんやってな、君の嫁さん。うらやましいわ。こいつが言うとったで」
 フライパンではたかれた時よりも重い衝撃が美奈を襲った。うつむいたままびくりと体を震わせた美奈の頭を、岩崎がぐいと手首を動かし揺すった。そして、「なぁ」といつものように美奈に言う。
 押えつけられて上げることの出来ない美奈の顔は熱くなっていった。額の血管が膨れ上がってどくどくと脈を打つ。顔のほてりは全身に流れて、毛穴という毛穴から嫌な汗を噴出させた。
「あれは、嫁というか、嫁の実家の車です」
 美奈に冷たすぎる水をかけるように、河田の平静とした声が答えた。
「やっぱり金持ちやないか」
「そうですね。嫁さんの実家は。でも俺の家と違います」
「ええのう、男前は。金持ちの女に拾ってもらえて。店も建ててもろたんか?」
「あれは俺の貯金とローンで作ったんです。店には、嫁さんは全く関わらせてないですから」
「こいつがなぁ、君が金につられて結婚したて言うもんやからな」
 岩崎が再び美奈の頭を揺する。
「そんなこと言ってませんっ」 
 美奈は顔を上げると同時に叫んだ。
「違うんかぁ? 俺にはそういうふうに聞こえたで」
 にやにやと笑う岩崎の顔。美奈はそれを見開いた目で睨むと、頭を押さえつける手をはじいて払いのけた。スニーカーが滑って床で膝を打った。
「違います」
 河田の足元にひざまずいて美奈は首を振った。
 河田は何も言わず、あきれたような困った顔をして美奈を見下ろしていた。「今は仕事しか考えられへん」と美奈を拒絶したその時と同じ顔をして。
「お前、ジーパン濡れるやろが、早う立て」
 美奈の腕を引っ張ったのは岩崎だった。美奈は首を横に振り、「違う、違う」と繰り返した。
「わかった、わかった。冗談やないか」
「うるさいっ」
 握った拳を岩崎の頬に振り上げた。「ペシャッ」とパン生地のガス抜きをした時のような感覚があった。
「いてっ、お前っ」
 岩崎が掴みかかろうとするのがわかったが、美奈は動かなかった。
 河田と金髪女の方が驚いて口を開けた。
 美奈の目にたまっていた涙が溢れてぽたぽたと床に落ちた。滲む視線の先に河田が見える。すぐそこにいるのにその姿は遠く感じた。キスをした調理場も抱き合った休憩室も、「いつか一緒に店をやろう」という言葉も全部なかったことにした男。
 勝手に「 。」を付けたのは河田だ。美奈の恋物語はまだ終わっていなかったのに。
 単純に、河田の愛情が自分に向かなくなっただけかもしれない。自分よりも気に入った女が現れて河田の気持ちが移っただけのことかもしれない。しかしそれをそのまま受け入れることが美奈には辛かった。河田が自分よりもお金を選んだと思いこまなければ心が折れてしまいそうだったのだ。そうやって踏ん張ってきたことがそんなにいけないことなのか。
「うっ、うっ」と美奈が嗚咽すると、突然岩崎が美奈を脇に抱えこんだ。
「河田君、こいつ、うちの店に来て泣いたことなかったんやで。フライパンで殴っても、きつい嫌味言うてもな。この根性はなかなかや。今までたくさん若い奴がうちの店来たけど皆ケツ割って行きよった。今となってはこいつがおらんとうちの店は回らん」
「……知ってます。彼女の根性は……本当に頑張り屋です」
「河田君をビビらす料理人に俺が育て上げたるわ」
 美奈は岩崎に抱えられたまま、床に出来た自分の涙の跡を見ていた。
 それはたくさんの句点の丸のようだ。
 一つの話はたくさんの句点で句切られている。一つの句点で話のすべてが終わるわけではない。今ここに涙で記した丸は、美奈の物語の中で小さな恋愛の章の終わりを表しているように思えた。
「今は仕事しか考えられへん」
 それはこっちの台詞だ。これからしばらくは仕事に向き合う章だ。このわがままで乱暴なおっさんの下で。
「おねぇちゃん、やっぱいつもの帆立は俺が貰うわ。おすすめの小さくて色の悪い帆立は河田君に使ってもらってくれ」
 岩崎は太々しく言い放って、美奈を抱えていない方の手を伸ばし、「いつもの帆立を寄こせ」と金髪女に催促している。
「よう見ると、魚屋のねぇちゃんよりお前の方が可愛いとこあるかもしれへんな」
 美奈に殴られて、岩崎も少しは悪いと思ったのか。
 岩崎の気持ち悪いお世辞に、美奈は久しぶりに声を出して笑った。


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