レストランタブリエの4巻で、レストランにワインを持ち込むお客さんの話を書きました。ワイン通とのちょっとしたトラブルで頼子が少し前を向けるようになるというものです。

これ、実はもっともっと恐ろしい私の経験から考えだした話でした。

 

そもそも、レストランにおいてワインを持ち込まれることは歓迎できることではありません。その理由につきましては4巻に書きました通り、ワインを預かるスペースや保管から抜栓までのケアをする手間がかかるということと飲料の売り上げが伸びなくなるということです。

 

調理師専門学校で和食かフレンチか選択するコースに迷った学生が、「儲けを一番に考えるなら和食にしなさい」とアドバイスされたという話を度々聞きました。

 

フランス料理は食材の原価がとても高いのです。

フォワグラ、キャビア、トリュフ、オマールエビ、何とか産仔羊、鳩、鴨……。

単純に使う食材だけで比べてみましたら、シンプルに盛られたお野菜の和え物一つで一品になる和食よりも、フランス料理は儲けにくい料理ということになるわけです。

フランス料理において、料理だけで十分な利益を得ようと思えば、コースのお値段は跳ね上がってしまいます。それではお客さんに来ていただけません。ですから、比較的原価率の抑えやすいワインの売り上げが重要になるのです。

 

フランス料理は食器類にもお金がかかります。

前菜用、魚用、肉用、デザート用……違う形のナイフとフォーク。全部銀製だったとしたらどれほどかかると思いますか? 金額の問題だけではありません。気を抜くとすぐに酸化して変色する銀食器にどれほど気をつかい、手入れをするスタッフの手が銀磨きの薬剤でどれほど傷んでいることか。

和食でどんなに高級な箸と箸置きを使っていたとしても、かかるコストと手間は銀のナイフフォークには敵わないはずです。

 

すみません……話が逸れてしまいました。

持ち込みワインで危うく命を落としそうになった経験を書こうと思っていたのでした。

 

そのお客様は最初一人で来店されました。五十代後半から六十代前半といったところの白髪の紳士です。高級そうなスーツをお召で、若い頃はさぞかしオモテになっただろうと想像できるお顔立ちでした。

「この近くで会社をしとるんや。こんなとこに店があったとは知らんかったな」

 そう言って名刺を置いて行かれました。確かに名刺の肩書は代表取締役社長です。

 この紳士は初めての来店から、週に一、二度ディナーに来てくださる超常連客になります。お一人のこともあれば、超絶美しい若い女性を連れてくることも同年代ぐらいのお友達を連れてくることもありました。

 
 先に申し上げておきますが、この紳士はお金持ちですがけして料理通やワイン通という感じではありません。肉は牛肉しか食べませんし、前菜はカルパッチョと決まっておりました。

 

紳士が食事をしている間、紳士の会社の社員の男性が店の外で待機しているらしいとわかったのはしばらく経ってからです。社員の男性は紳士のタバコが切れそうになると、いつも絶妙なタイミングでタバコの補充にやって来られました。その社員の男性が、レンズに色が入った眼鏡をかけて柄物のセーターを着ていたりして、普通のサラリーマンの雰囲気ではないのです。

 

あれ? もしかして、この方々は……。

 

予想が確信に変わったのは、紳士が六名程度で来店した日です。メンバーの一人の白いシャツに、背中に彫り込んだ青緑色のイラストが透けて浮かんでおりました。

「そらあかんわ、スケスケやないか。上着着とけ」

 他のメンバーに注意されて渋々その方は上着を羽織りましたが、「ワシはもっと生地の厚いシャツを着とる」とか、「シャツの中に濃い目の肌着を着とる」とか口々に自分なりの工夫を発表し始めて、ああやっぱりそういうお仲間なのだと。

 

 私は緊張しました。

 なぜなら、私にとって明らかに爆弾となるブツを紳士から預かってしまっていたからです。

 そうです。ワインです。

こんな怖そうな人たちの前であれを開けるのかと思うと恐ろしくて。

 

事前に紳士の会社の男性が貸し切りの予約に来店され、持ち込みのワインを持って来られました。

ボルドーの有名銘柄の古酒でした。贈答品らしく木箱に入っており、おそらく手に入れた時からずっとその箱に入れたまま保存しておられたものでしょう。箱の中に液漏れが見られました。


 手提げに入れて無造作に持って来られたのですから、当然ワインの液中に澱が舞い上がっております。予約の日までに完全に澱を落ち着けることは難しい状態でした。

「ワシのとっておきのワインを用意しといた」

 そう紹介されてしまったので、私は紳士に恐る恐る申し上げました。

「旨味成分(澱のことです)が大変多いのでお口に少しザラリとした感覚があるかもしれません」

「そうか、そうか、旨味が多いか」ご満悦で、「注いでくれ」と促されます。

ええい、もういくしかない。

腹をくくって栓を開け、ソムリエとして少しの味見を願い出ました。

 

あ、美味しい。

 

口に含むと少し澱がザラつきますが、さすがは格付けワイン、角の取れた渋みが上品で美味しかったのです。それで安心してサービス出来ました。

 

ところが。

保存の状態があまり良くなかったせいでしょうか、空気に触れてからの劣化は思っていたよりはやく、グラスの中でどんどん味わいが落ちていきます。すると、紳士の隣に座っていた人が、

「高級ワインは二日くらい前から栓を開けとかなあかんらしいですよ」

 と紳士に言いました。

「なんやて? ほな、開ける時間を間違えたいうことか」

 

 思ってもみないところで、突然爆弾の導火線に完全に火が付いたのです。

小一時間もしないうちに酸化してしまったワイン、二日も前から空けていたら飲めたものではありません。

なんてことを言ってくれるんだ。心では相手の胸ぐらを掴む勢いで怒りを感じておりました。

しかし、私には何も言えませんでした。

言えるわけがないじゃないですか!!! 怖すぎるでしょう!!!

 

「ワシに恥をかかせよって」

 紳士が私に凄み、

「まぁまぁ、若い子ですし、これから勉強していくでしょうから、ここはひとつ許してやってください」

 他のメンバーが紳士にそう言ってなだめてくれました。

 

 映画でしたら切られてしまうところでしょうか。

 

 内容は全く違うものになりましたが、タブリエのあのエピソードはこの経験から思いつきました。物語より事実の方が数倍恐ろしい話です。

ちょっと面白い後日談もあるんですけど、もしかしたらこの先、その経験が何か別の物語に使えるかもしれませんのでここではお話ししないことにいたします。イヒヒ。

 

大切なワインをせっかくだから美味しい料理と合わせたい。その気持ちよくわかります。ワインをレストランに持ち込むときは、持ち込むお店の条件もしっかり聞いてみてください。通じ合えれば、ワイン担当者はきっとあなたのワインを一番美味しい状態で出したいと思い、最良だと思う扱いをしてくれます。

プロならば、命がけで、たぶん。